「対話は、他人と同じ考え、同じ気持ちになるために試みられるのではない。語りあえば語り合うほど他人と自分の違いがより微細にわかるようになること、それが対話だ。」
「対話の可能性」鷲田清一氏
哲学者の鷲田清一氏の「対話の可能性」という素晴らしい文章のことは、東日本大震災の数年後、「宮城県アディクション問題研究会」でスピーカーを務めていただいたTさんに教えていただきました(Tさんには、大震災で自らも被災されながら、地域の方とともに懸命に避難所運営に当たられた体験をお話しいただきました)。
鷲田氏は最近までせんだいメディアテークの館長を務めておられ、定禅寺通り(仙台市中心部のケヤキ並木の美しい通りです)に面したメディアテークのウインドウにも「対話の可能性」の文章が掲示されていましたので、お読みになったことがある方もいらっしゃると思います。
冒頭に引用させていただいたのはその中の一部で、私が特に心惹かれる部分です。全体がとても味わい深い文章で、時々読み返しては、「ここはこういう意味なのかな?」などと考えることがあります。
日常生活で様々な人と会話をする中で、考えや意見が異なることはよくあると思います。場合によっては、相手の話をさえぎって反論を試みたり、適当に表面だけ話を合わせたり、「言っても無駄」と考えて、関わりを避けることもあると思います。
鷲田氏は「対話の可能性」の中で、「(対話の時に)理解しあえるはずだという前提に立てば、理解しえずに終わったときに、「ともにいられる」場所は閉じられる。けれども、理解しあえなくてあたりまえだという前提に立てば、「ともにいられる」場所はもうすこし開かれる。」と書かれています。
対話する相手と考えや意見が合わなくても、無理に相手に合わせたり、説得にかかって相手の考えを変えようとするのではなく、相手を避けて自分の殻に閉じこもるのでもなく、「理解しあえなくてあたりまえだ」と考えて対話を続けていくことの大切さ。「わかりあえる」「居心地のいい」関係ばかりが人と人の関係ではなく、「わかりあえない」痛みを抱えたまま、それでも続いていく人間関係の価値。鷲田氏の「対話の可能性」から、そんなことに思いを至らせていただきました。
フィンランドに始まり、精神科医の斎藤環氏が日本に紹介された「オープンダイアローグ」の考えには、「対話が続いてさえいれば何とかなる」という楽観主義があるそうです。意見や感覚が合わなくても、その先に何があるのかわからなくても続いていく対話、そんな対話のつながりを私も皆様と作っていきたいと思います。
お読みいただき、誠にありがとうございます。
(写真は5月21日<カウンセリングルームながまち>前のバラの花です)
カウンセリングルームながまち 室長 樋口明夫

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