「カウンセリングルームながまち」上級心理カウンセラー Chie
1昭和のころのセクハラ
去年(2024年)、「不適切にもほどがある!」というドラマが話題になりました。コンプライアンスなどという言葉が1ミリもない、パワハラ、モラハラ、セクハラがまかり通る、令和で言えば「不適切」な昭和時代から、コンプライアンスが厳しい令和時代にタイムスリップしてしまった男性が体験する、「なんで?」という違和感やドタバタ劇が、「昭和」を経験している世代の私などには、特に苦笑してしまうドラマでした。
セクハラは、コンプライアンス違反の最もわかりやすく身近な一類型ですが、男女の力関係が昭和とは変化した令和の時代にあっても形を変えて残っています。
中でも、昭和のころと大きく変わったと感じられるのは、「男性も女性同様、容姿の美醜がマナ板に乗せられ、評価される」ことが当たり前になったことでしょうか。
昭和の時代の終わり頃に大学生だった私は、障がい者を支援する活動など、ボランティア活動に参加していました。そんな活動に参加する真面目で意識も高い男子学生達すら、数少ない女子学生を皆の前で引き比べ、「〇〇さんは可愛いとは言えるけど美人とは言えないよね」とか、「研究室に残りたがる家事ができないオンナとは結婚したくない」とか、言いたい放題でした。
若かりし私も例外なく容姿を評され、傷つきましたが、今だったら、(年齢を重ねた図太さも加わって)「どの口が言う、このブサイク!鏡もってきたろか?」ぐらい言い返してやれたのに、と時々悔しく思い返します。
もちろん、男子のいないところで、女の子同士であの人かっこいいよね、ぐらいのことは言いあっていましたが、当時、大学祭でのミスコンやマスコミのグラビアページに見られるように、容姿に関して公衆の面前で品評会ができるのは、男性が女性に関してだけだったのです。
2 令和のセクハラ
さて、令和の昨今。コンプライアンスに厳しい世の中になったとはいえ、セクハラは、以前ほどあからさまでないだけに、傷つけた本人や周囲もいっそう無自覚でわかりにくい形で続いていると思います。
例えば、年若い私の女性の知人は、同期一の美人と言われる女性社員と上司の3人で他社に営業回りをした時、得意先の社員達が、上司に「うわあ、すごい美人つれてきましたね」と美人社員のみに注目した発言をして、自分のことは一切言及されず、傷ついていました。
得意先の社員は、決して知人の女性を直接的に貶めたわけではありません。ただ、数人(この場合は2人)の女性がいて、1人だけを「美人」と褒める、というのは、他の女性は美人でない、あるいは眼中にも入らない存在、と、感じさせるには十分です。
女性も仕事の能力など様々な観点の評価軸が広がったとはいえ、やはり容姿に関する言及で傷つく、ということは昭和の時代と変わりません。
こうした事例のように、「容姿を公然と蔑む言動はアウト」という常識がしみついている令和の世代も、間接的に他者を傷つける言動には無自覚です。
それ以上に、より匿名性の高いSNSなどネットの世界では、芸能人の容姿の変化を「劣化」と言い放ち、時間と気を紛らすことが日常茶飯事の風潮の中で、「それはセクハラだ」とか一々言うことは非現実的ですし、おそらくは「窮屈な変人」扱いされるだけでしょう。
3 容姿と自分というものの価値
幼い頃から外見を褒められてきた人には肯定的な言葉が投げかけられやすいため、自己肯定感が育まれやすいということは想像に難くありません。
けれども、令和の時代にありがたいことは、まだまだ「容姿の評価軸」には及ばないとしても、女性も「仕事の能力」や「スポーツなどで発揮される運動能力」など、公ではかられる評価の観点が多様になってきたことです。
そして何より重要なことは、別に他人から何かを評価されなくても、自分が生きていく上では全く支障はなく、誰かが何かで優れて評価されたとしても、それは一時的なことであり、自分には本質的に関係がない、と思えるようになることなのだと思います。
余談ですが、私は障がい者支援の活動をしているとき、ある高齢男性で障がいをお持ちの方が、どうしても私に日常介護に来てほしい、お人形さんみたいでかわいいから、繰り返しと言っていると、尊敬していた男性の先輩から伝えられた時、言いようのない違和感と嫌悪感を覚えました。
なぜなら、その言葉の中には、「障がいのある方の生活の手助けをしたい」という、私の思いや努力に関することは全く欠落していて、容姿だけ(おそらく小柄できゃしゃで童顔だったため、お人形さんみたい、という表現になったのでしょうが)で執拗に指名されたことと、そのことをためらいもなく伝える先輩への失望を感じたからです。
難病になり、特に足が思うように動かなくなってしまった今などは、運動神経の面で優れている、つまりスポーツではつらつと活躍している女性たちを見ると胸が痛くなるようになりました。昔、宙返りやゴムとび、自転車で走り回っていたころなど、活発に動けていたころの自分を思い出して辛くなるのだと思います(不思議なことに、男性のスポーツ選手を見ても、胸の痛みはそこまではひどくなりません。そもそも属性が違う、という先入観があるのでしょう)。
容姿に関して過度に気にしないようになるのは難しいことですが、年齢を重ねても美しくあることは努力が必要になります。さらに、容姿のほかにも、今や話題にのぼる評価軸はたくさんあります。
ただ、結局他人は思っているほど自分を見ていないものです。
自分が何かで優れていようがいまいが、最も影響を受けるのは自分自身なのです。
自分の優劣について責任を取るのは、自分に対してだけで良い、ということは、気楽なようでもあり、逃れようのない厳しいことでもあります。

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