「カウンセリングルームながまち」上級心理カウンセラー Chie
1 今さら体験格差?
今朝(令和7年9月14日)、朝日新聞に「体験格差を考える」という記事が掲載されていました。
経済的な理由や家庭の事情で学校外の活動ができない、スポーツや文化活動などの差を示す言葉として「体験格差」という言葉が注目を集めているとのことです。
海辺の田舎町に生まれった育ち、学生時代から、自分に比べればはるかに都会に生まれ、経済的に困窮した経験のない同級生達の中で生きてきた私にとって、「今さら、そんな言葉が出てくるの?」という思いや、「学校外の活動どころか、そもそも、家庭内での経験値自体、格差があるのに、家庭外での『体験格差』もないだろう」という、複雑な感情を抱きました。
2 家庭事情による体験格差
私は高校時代から近隣の都市の女子高に通学しましたが、田舎の平和な進学高とはいえ、多感な女子の集まりですから、おしゃれや、男子校の生徒、中には憧れの同性の先輩へプレゼントするお菓子や手編みのセーターの編み方(昭和なので)などで話題がもりあがることもありました。
当然、お弁当は何人か中の良いグループで食べたりするので、そのお弁当の色どりの美しさなども、関心の的でした。
私は、自分の家をことさらに不幸だったとも、親の愛情が薄かったとも思ってはいません。
ただ、家庭の事情としては、水産加工業を営み、従業員や商売の人が絶えず出入りしたり、隣接する工場に交代で寝泊まりする機関士さんや役員を務める叔父達が住み込んだりで、絶えず家がわさわさしていました。
そんな我が家での絶対のルールは「早く、早く」ということで、もたもたゆっくりしていることは絶対に許されませんでした。
朝ごはんは決まって納豆ごはんとみそ汁をかきこみ、台所仕事の手伝いとといえば、たとえば「みかんの缶づめの粒を2個づつ、このポテトサラダにのせて」とか、皿洗いとか、洗った後の食器をふくこととか、洗濯物を取り入れるとか、手順の決まった、およそ創造性のかけらも必要のない作業を手早く行うことだけが求められました。
だから、同級生が、ケーキをどうしたらきれいに美味しく作れるかとかいう話題には全くついていけず、ある同級生の、母親が毎朝スープを作ってくれて、パンと卵焼きとオレンジジュースを食べるといった朝食の話を聞いた時は、あまりの優雅さと平和さに「なにそれー⁈」と驚愕したくらいです。
母親がケーキの作り方やスカートのまつり縫いを教えてくれて、一緒にやってみる、という、愛情あふれる贅沢は、「台所に立つのは決まった手伝いをする時だけ」で、縫物を教えてほしいなんて、そもそも話しかけるきっかけがつかめないほど働きまわっている母親を見ている私には、とうてい経験できないことでした。
そんな私でも、ある時、どうしてもマドレーヌというものが作ってみたくなり、普段は、マグロをさばいたり、大勢いる人数分の料理を作ったり皿洗いをしたりするために、私などが占領することは想定されていな台所を、午後の2時間だけ使うことを両親に許してもらいました。
父も母も、娘が初めてお菓子作りに挑戦することに良い顔はせず、むしろ「3時からは料理に使うから駄目だよ」とだけ申し渡されました。
私は、同級生から借りたティーンズ向け雑誌の「お菓子づくり特集」の記事を教師に、秤で小麦粉を図り、自分のこづかいで買ったベーキングパウダーやバニラエッセンスといった未知の憧れの材料を初めて手にしたワクワク感と、一方では、隣の居間で(癖なのはわかっているのですが)鼻を鳴らしながらせかしている父親や、そんな父親を気にして私の占領を一分でも早く終わらせたがっている母親の気配に焦りながら、一生懸命お菓子づくりに格闘しました。
しかし、そこは材料を見るのすら初心者の悲しさ、途中でバニラエッセンスを入れすぎ、様々な材料の分量も雑だったせいで、出来上がったマドレーヌは、やたらとバニラの香りのする悲惨なものでした。
父も母も、「やっと終わったの」という感じで、私もこんな失敗作を自分以外の誰にも勧める気になれず、悲しい思いでいた時、「おめー、焼き菓子作ったの。けっこう旨いな」と言って一つ食べてくれたのは、意外にも、いつも素行不良(すみません・・でももう亡くなってます)で、酒や女や博打でやらかす、一応我が家の会社の役員だった叔父だけでした。
そのほかにも、学生時代、家庭教師のお宅でてんぷらそばを出され、てんぷらにはいつもソースをつけて食べていたために「あの・・ソースはないですか?」と聞いて、家庭教師先のお宅を困惑させるなど、家庭での体験の貧しさ、乏しさから来る恥ずかしさを何度経験したかわかりません。
そもそも「家庭格差」を身に染みてきた自分にとっては、「体験格差」など、家庭格差が家庭の外でもより表面化しただけ、としか思えないのです。
3 「体験格差」を超えて
新聞記事にもあるとおり、今や親がお金を払って子どもにいろいろな体験をさせる、中にはボランティアまでさせる、「体験」を買う時代です。
そうなってしまうのは、テレビなどに出てくる専門家やコメンテーター、おそらく大企業などの組織においても、海外留学経験など、何かしらの「人に語れる体験」という「箔」をつけた人、そしてそれに基づく様々な人脈やスキルや知識を上乗せしている人達が多いという現実があるのでしょう。
わが子に「箔」(失礼、「得難い体験」)をつけさせるためにお金を払おうとする親を持つ子は幸せだなあとも思いますが、そういう留学経験などをした人の数が多くなれば、それにまたプラスして何らかの「語れる経験」をすることが必要になります。
なぜなら、「体験格差」で上位に位置する「体験」は、「人に語れる」=「この人は特別な体験をしてきて、スキルがあって、優秀で、ステキな人だ」と思わせるものでなければ意味がないからです。
つまり、海外留学経験者が多くなれば、それに上乗せできる積み木(さらに特別な体験なり、スキルなり、人脈なり)が必要になります。
大変ですね。
上述したように、私の実家の台所は、いつもマグロとかカツオとかの大きな魚を、父が出刃包丁でさばいていたので、魚臭かったです。
だから、いつごろからかスーパーやホテルのバイキングなどで「マグロの解体ショー」とかが人気を集めるようになった時、「こんなことがなんで面白いの?」と驚きました。
自分にとっては、幼い頃の日常茶飯事の出来事だったからです。
いくら「マグロの解体ショー」が人気になっても、私が小さい頃、実家では、父が毎日のようにマグロの解体をしていた、なんて言っても、人は笑うだけでしょう。
つまりそれは、 「人に語って自分の価値を高める体験(箔)」ではないのです。
私は、これまでの人生で、いわゆる箔のつかない体験のほうが多かった気がします。
たぶん、大方の人がそうでしょう。
だから、「普通の、平凡な人」になりたくない人や、進学や就職等の事情で、普通ではダメなんだという人は、「箔のつく体験」を求めるのだと思います。
あなたはどうでしょう?
自分の体験を語って、「すごい人、すてきな人、特別な人」と思ってもらいたいですか?
有利に生きていけそうな、かっこいい「体験エリート」になりたいですか?(私も、なれるものならなってみたかったですが・・)
中には、他人に「素晴らしい人」と思われることが必要な状況の方もいるでしょうが、一生素晴らしい人でいるのは大変なことです。
今のところ、私自身は「あんなこともあったな、こんなこともあったな」と、自分でかみしめて、いろんな味がする体験を重ね、人生の最後に「今生はここまで。ありがとう」と振り返りながら思えるよう、願うことにしています。

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